江戸時代の1777年、朋誠堂喜三二(作)と恋川春町(画)という二人の武士によって『桃太郎後日噺(ももたろうごにちばなし)』という大人向けの絵本(黄表紙)が出版されました。
この物語は、私たちがよく知る痛快な桃太郎の鬼退治の続きを描いています。
青年になった桃太郎は、鬼ヶ島から連れ帰った赤鬼の息子(鬼七)や猿(猿六)とともに元服します。
しかし、そこから物語は予想外の方向へ進みます。
猿六は下女のおふくに恋をしますが、おふくが好きなのは鬼七です。
さらに鬼七の許嫁まで現れて愛憎劇が絡み合い、嫉妬に狂ったおふくは歌舞伎の『道成寺』さながらに大蛇へと姿を変え、最後は桃太郎と犬に退治されるという結末を迎えるのです。
江戸のエンターテインメント「穿ち」と「オチ」
なぜ江戸の作家は、英雄である桃太郎をこのような人間くさい愛憎劇の主人公にしたのでしょうか。
そこには、当時の黄表紙に欠かせない「穿ち(うがち)」と「オチ」という手法がありました。
「穿ち」とは、表面的なきれいごとではなく、その奥にある人間の見栄や欲望、世の中の矛盾をあぶり出して笑いに変える表現です。
当時は浅間山の噴火や天明の大飢饉など、庶民にとって苦しい時代でした。
だからこそ、誰もが知る英雄を当時の若者のように描き、人間の愚かさや本性を「穿つ」ことで、読者はつらさを忘れて笑うことができたのです。
ただし、ただドロドロとした人間の嫌な部分を見せるだけではありません。
江戸の絵本には必ず、物語をきれいに締めくくる「オチ」が用意されていました。
読者は笑い、納得し、何かに気づいて本を閉じるという、新しいエンターテインメントを生み出していたのです。
時代と権力によって姿を変える桃太郎
実は、桃太郎の物語自体が、時代とともに大きくその姿を変えています。
誰もが知る昔話「桃太郎」は、室町時代の末期に生まれました。
古来より桃には魔除けの力があるとされ、人から人へ口伝えで語り継がれてきた物語です。
江戸時代に入ると、桃太郎は子ども向けの「赤本」として親しまれますが、当時は「おじいさんとおばあさんが桃を食べて若返り、桃太郎を生む」という不老長寿の要素が強いものでした。
さらに大人向けの「黄表紙」が流行すると、作家たちはこの有名な昔話を自由にアレンジし、数多くのユーモラスな後日談を楽しんで描いたのです。
政府によって利用された桃太郎
明治時代を迎えると桃太郎の役割は一変します。
学校の教科書に採用され、「正義や勇気、親孝行」を教える教育的な物語として、現在の私たちが知る形に作り変えられたのです。
さらに戦争の時代には、敵国と戦うプロパガンダとして国の宣伝にも利用されました。
このように、桃太郎は物語自身が変わったのではなく、時代ごとの「語る目的」によって都合よくその姿を変容させられてきたのです。
そして、国家の都合によって「正義の英雄」として固定化されつつあったこの物語に対し、鋭く待ったをかける二人の人物が現れます。
「正義」に待ったをかけた二人の偉人
桃太郎が国家の正義として語られるようになった近代において、その物語に「待った」をかけた人物がいます。
一人は福沢諭吉です。
明治4年の著書『ひゞのをしへ』の中で、「鬼を退治するのは勇気かもしれないが、鬼の宝を奪って持ち帰るのはただの強欲であり、決して卑しい行いをしてはならない」と、無批判に宝を奪うことへ疑問を投げかけました。
もう一人は芥川龍之介です。
大正13年に発表した短編『桃太郎』では、「鬼から見れば、人間のほうが嘘をつき、欲深く、殺し合いをする恐ろしい生き物である」と視点を完全に逆転させました。
平和に暮らしていた鬼ヶ島へ突然やってきた桃太郎を「侵略者」として描くことで、当時の日本が海外へ勢力を広げていた帝国主義的な空気に対し、静かで鋭い批判を込めたのです。
彼らは、国が一つの方向に人の心を向かわせようとする「物語の怖さ」を見抜き、「誰もが当たり前だと思っている正義」に別の視点を与えたことになります。
絵本を読むときや描くときは、多様な視点を持つことが大事であるという、江戸の戯作者たちや近代の文豪が残した桃太郎は、現代における創作のあり方を深く教えてくれています。