今から約250年前。
江戸時代に、大人が楽しむ絵本を生み出した人物がいます。
恋川春町(こいかわはるまち)です。
1775年に出版された『金々先生栄花夢』は、黄表紙と呼ばれる大人向けの絵本の始まりといわれています。
以前、国立国会図書館で、この作品の原本を眺めたことがありました。
そのときは、絵を見るだけでした。
今回は現代語訳を片手に、原本の絵と照らし合わせながら、じっくり読んでみることにしました。
すると、最初に絵だけで想像していた物語とは、少し違っていたのです。
『金々先生栄花夢』はどんな物語なのか
最初に原本の絵を見たとき、私は、こんな話だと思っていました。
田舎から出てきた男が、金持ちの跡取りになります。
ところが、遊びほうけて財産を使い果たし、最後は家から追い出される。
よくある道楽息子の失敗談だと思ったのです。
しかし、現代語訳を読むと、半分は当たっていましたが、大切な部分を見落としていました。
物語は、お金持ちになることを夢見て、江戸へ向かう金兵衛という男の話です。
金兵衛は、目黒不動の門前にある粟餅屋に立ち寄ります。
そこで、餅ができあがるのを待つあいだに、うたた寝をしてしまいます。
夢の中で、金兵衛は裕福な商人の養子に迎えられ、そして、「金々先生」と呼ばれるようになります。
「金々」とは、当時の流行の最先端を気取ることを表す言葉です。
金兵衛は、着飾って遊びほうけ、贅沢な暮らしを楽しみます。
ところが、遊び過ぎたためにやがて家から追い出されてしまいます。
その瞬間、ふと目が覚めるのです。
すべては夢だったということです。
目の前では、粟餅がまだできあがっていません。
金兵衛は、人生の栄華も粟餅ができるまでの短い夢のようなものだと悟り、故郷へ帰っていきます。
恋川春町は何を伝えたかったのか
この物語は、中国の古い小説『枕中記』に由来する、謡曲『邯鄲(かんたん)』をもとにしています。
そこには、人生の栄華も富も、夢のようにはかないという考え方があります。
仏教でいう「諸行無常」にも通じるものです。
ただし、春町は、人生のはかなさを最初から説明しているわけではありません。
金兵衛を金持ちにして、思う存分遊ばせます。
その滑稽な姿を読者に見せて、笑わせるのです。
そして、最後に夢から覚めることで、すべてが一瞬の出来事だったと気づかせます。
読者を楽しませながら、その奥に人生についての問いかけを忍ばせているのです。
そこが、この絵本の面白さだと思いました。
絵と言葉が重なることで生まれるもの
私は、大人が読む絵本を作るようになってから、読者に何を伝えたいのかを考えるようになりました。
しかし、伝えたいことを、そのまま文章にすると、説教や教訓になってしまいます。
たとえば、「人生ははかないものです」と最初から説明してしまったら、そこで物語は終わってしまうのです。
そこで、春町はそうしませんでした。
一人の男に夢を見させ、その人生を通して、読者に何かを感じてもらおうとしたのです。
私が最初に原本の絵だけを眺めたときには、道楽息子の失敗談にしか見えませんでしたが、現代語訳を読むことで、物語の意味が変わってきました。
絵と言葉が互いに補い合うことで、物語はさらに深みを増すということになったのです。
250年前の絵本を読んで、絵本という表現の面白さを改めて感じた次第です。
もう一つの奇妙な絵本『辞闘戦新根』
ところで、恋川春町には、もう一つ面白い作品があります。
『金々先生栄花夢』から3年後、1778年に出版された『辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね)』という黄表紙です。
この作品が奇妙なのは、登場するのが普通の人間ではないことです。
「大木の切り口太いの根」「どら焼き・さつま芋」「鯛の味噌吸」「とんだ茶釜」
何とも奇妙な名前の化け物たちが登場します。
彼らは宴会を開き、やがて大騒動を巻き起こします。
今回も国立国会図書館の原本を眺めてみると、さまざまな姿をした化け物が、実に楽しそうに描かれています。
江戸の人々に通じた笑い
実は、この化け物たちの名前には、当時流行していた言葉や洒落が使われています。
たとえば、「とんだ茶釜」という名前は、江戸時代に流行した言葉遊びに関係しています。
当時の人なら、その名前を聞くだけで笑えたのかもしれませんが、250年後の私には、その面白さがなかなか伝わってきません。
現代でいえば、流行語を使った冗談のようなものでしょう。
最近の「メロい」「エモい」という言葉と同じですが、この言葉も何十年もたてば、知らない人が増えるかもしれません。
当時の人にとって面白かった言葉も、時代が変われば、その意味を説明しなければ伝わらなくなるのです。
新しい言葉と古い物語の戦い
『辞闘戦新根』の面白さは、化け物たちの名前だけではありません。
物語の中では、流行語から生まれた化け物たちが、出版に関わる人々に腹を立てます。
自分たちを本に登場させておきながら、敬ってくれないという不満をぶちまきます。
そして、怒った化け物たちは、暴れ回ります。
ところが、最後に意外な展開が待っています。
版元が蔵の扉を開くと、そこから現れたのは、昔から親しまれてきた物語の主人公たちでした。
坂田金平、鉢かづき姫、牛若丸などです。
彼らが、流行語の化け物たちを退治してしまいます。
何とも、はちゃめちゃな物語です。
しかし、私は、この結末を読んで、少し考えさせられました。
新しい言葉から生まれた化け物を、昔から語り継がれてきた物語の主人公たちが退治する。
これは、流行は過ぎ去っても、長く読み継がれる物語は残るということを、表しているのではないかというkとです。
もちろん、春町が本当にそこまで意図していたのかはわかりませんが、そう考えると、この奇妙な物語にも、違った面白さが見えてきます。
時代を越えて残る面白さとは
同じ恋川春町の作品なのに、この二つには大きな違いがあります。
『金々先生栄花夢』は、今読んでも物語の面白さが伝わってきます。
「金持ちになりたい」「贅沢をしてみたい」「人から立派に見られたい」
そんな人間の欲望は、250年前も今も、それほど変わっていないからです。
一方、『辞闘戦新根』は、当時の流行語を知らないと、笑いの意味が伝わりにくい作品です。
だからといって、作品の価値が低いわけではありません。
当時の江戸の人々が、どんな言葉で遊び、何を面白がっていたのか。
それを知ることができるだけでも、貴重な作品だと思います。
その時代だからこそ楽しめる面白さ。
時代が変わっても共感できる面白さ。
どちらも、絵本には必要なものだと思います。
今の絵本作りに思うこと
私は今、AIを使って、大人が読む絵本を作っています。
何を描こうかと考えるとき、いつも思うのは、読者あっての絵本だということです。
けれど、ただ面白ければいいというだけではありません。
その笑いの奥に、作者が何を描こうとしているのか。
そこが大切なのだと思います。
『金々先生栄花夢』では、金兵衛の滑稽な姿を楽しんだあとに、人生のはかなさが心に残りました。
一方、『辞闘戦新根』からは、笑いにも時代とともに変わるものがあると気づかされた中でも、その時の笑いを重視しました。
読者を楽しませながら、何かを心に残す。
それが、私の作りたい絵本なのだと思います。
絵本は、作者の考えを一方的に教えるものではありません。
物語を楽しんだ読者が、自分なりに何かを感じ取ることができる、そのために、絵と言葉があるのだと思います。
250年前の恋川春町の二つの作品を読みながら、これから自分はどんな絵本を作っていきたいのか改めて考えさせられました。