鏡を見るたびに増えるシワや、白髪が目立つようになってきました。
老いることは、誰にも避けられない自然な変化です。
それなのに私は、どこかで落ち込んでしまうことがあります。
なぜなら、若さばかりがまぶしく見えることがあるからです。
若い人の、はつらつとした姿を見ると、老いることは、敗北なのかと感じてしまいます。
75歳になって、ふと立ち止まって考えてしまうことなのです。
目次
人生は若さだけではない
生産性のことだけを見れば、老いは若さには太刀打ちできません。
しかし、人生は生産性だけじゃありません。
老いを衰えや喪失といった否定的なことで考えるのではなく、老いこそが、自分らしく輝ける余白の時間だと私は思います。
つまり、あくせくしない働きの中に、 効率や数字では決して測ることのできない、本来の人間としての営みがあるのです。
そのことに、この歳になってやっと気がつくことができました。
老後に生まれた余白という時間
見方を変えれば、社会の第一線から離れたこの時間は、人生において素晴らしい贈り物でもあります。
老後とは、人生で手にした純粋の余白の時間だからです。
若い頃のように、時間やノルマ、誰かの期待に追われることはありません。
かつては、がむしゃらに働くことしか選べませんでしたが、今は違います。
この余白の中には、誰のためでもなく、自分自身のために、好きなペースで活動することができるのです。
余白がもたらした生き方
私の現役時代も、頑張ることが当たり前でした。
少しでも手を抜けば、誰かに追い抜かれる気がして、休むことすら罪悪感を持っていました。
常に他人と比べ、立ち止まることができず、「期待」という物差しで自分を縛っていたのです。
でも今は、考えが変わりました。
もっと、立ち止まってもよかったということに気がついたのです。
なぜなら、本当に大切なことは、誰かの期待に応えることではなく、人として自分らしく生きることだったからです。
地位も名誉も関係ありません。
ありのままの自分でいることこそが、人間としての本当の喜びであり、そこに私たち一人ひとりのかけがえのない価値があったのです。
自分を殺して生きた時代
しかし、当時の私はそれができませんでした。
本来であれば、自分という価値を見つけることは、会社員時代であっても大切な生き方だったはずです。
言われたことをこなすために、まるで馬車馬のように働き、それだけで生きていました。
それはある意味、自分という人間を否定し続けていたのと同じことだったかもしれません。
何かを犠牲にして、組織のためだけに神経をすり減らして生きる日々に、 ふと「自分は何のために生まれてきたのだろう」と、虚しさに襲われることもありました。
余裕のなかった時間
振り返れば、若い頃から定年を迎えるまでの日々は、まさに余裕のない生き方でした。
仕事に追われ、責任を背負い、家族を養い、社会の期待に応えるために走り続ける毎日だったのです。
それは充実してはいましたが、自分の心を見つめる隙間などありませんでした。
まるで、ぎっしりと文字が詰まった、余白のない書物のようなものだったのです。
無駄だと思っていた時間が愛おしい
しかし、定年を迎え、一人暮らしをしている今はどうでしょう。
朝、誰にも急かされずに目覚めることができます。
好きなコーヒーを淹れて、窓の外でさえずる鳥の声に耳を傾けることもできます。
かつては慌ただしく、無駄だと思って切り捨てていた時間が、今では何よりも愛おしい時間としてあるのです。

この穏やかな時間こそが、本来の人間らしい生き方なのだと実感しています。
もちろん、思い返せば、あの時の溌剌と働いていた頃のエネルギーを、どこか懐かしく感じることもあります。
あの頃にはあの頃の輝きがありました。
しかし、今の私にあるのは、あの頃とは違う種類の輝きです。
それは、燃え盛る炎のような輝きではなく、静かにあたりを照らす、温かい灯のような輝きなのです。
人生というキャンバス
老いるということは、何かができなくなることではありません。
人生というキャンバスに、ようやく自分の好きな色で絵を描くことができる「余白」が生まれたということです。
この老後の余白の中で、誰のためでもなく、自分の心の色で描くことこそが、私たちが探し求めていた「人間らしく生きる」ということではないでしょうか。
そして今、私はこうも思うのです。
自分の色で人生を描くことができることが、私たちが人間として生まれてきた、本当の目的だったのかもしれないということです。
余白があるからこそ見えてくるもの
もし若い頃に、この「余白」という考え方を知っていたら、もっと楽に、もっと軽やかに生きていくことができたかもしれません。
今頃になって、私はそのことを深く悔やんでいます。
この余白とは、単なる「暇な時間」や「空虚な空白」ではありません。
若い頃には忙しすぎて見過ごしていた、季節の移ろいや、人の優しさといった、人生の彩に気づくための大切なスペースだったのです。
老いという「余白」が教えてくれたこと
今、世の中を見渡すと、少し急ぎすぎているように思えます。
「もっと効率よく」「もっと成果を」
まるで、社会全体が早回しの映画のように、何かに向かって動いています。
役に立つ人間であれ、こうあるべきだといった結果が重視されて、生きる意味を見失いそうになっている若者も大勢います。
そんな彼らの姿を見ると、今の自分ならそれだけではないと伝えたいのです。
それは、焚き火と同じで、薪を隙間なく詰め込みすぎると、空気の通りがなくなり、火は燃えるどころか消えてしまいます。
あえて、余裕を持ってゆっくりと、隙間という余白を意識しながら、あなたがあなたらしく燃え上がるために生きてほしいのです。
私の老後の生き方
世間からは、長年働いたのだから、あとは引退してのんびり暮らせばいいと言われます。
確かに、それも一つの幸せかもしれません。
けれど私は、心のどこかで強く思ってしまうのです。
ただのんびりするだけで、人生を終わらせたくはないということを・・・・。
ただ、若者のようにはエネルギッシュに動けないことも事実なので、私が手に入れたこの余白とともに、自分らしく人生の残りの時間を生きていこうと考えています。
次に、老後の生き方について書いた記事がありますので、参考に読んでください。
