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余白のある時間の使い方|シニアよ大志を抱け

「余白のある暮らし」というと、多くの人は「縁側でお茶を飲んで、のんびり過ごすこと」をイメージするかもしれません。

しかし、私が提案したい「余白」の使い方は少し違います。

余白とは、暇つぶしの時間ではなく、シニアがもう一度「大志」を抱くための、助走のスペースなのです。

百尺竿頭一歩を進む

仏教の言葉に「百尺竿頭一歩を進む(ひゃくしゃくかんとういっぽをすすむ)」という力強い教えがあります。

百尺もの高い竿の先に立っている状態を想像してみてください。 

そこは到達点であり、ある種の目的を達成したゴールです。

普通なら「ここまで来たのだから十分だ」と満足し、そこに留まろうとします。

しかし、そこが最終地点ではなく、その先にあるものに対して行動を続ける必要があるということです。

なぜなら、そこで行動をやめてしまったら、その先にある次の世界が見えて来ないからという話です。 

行動は生きる力になる

私たちシニアの暮らしに置き換えてみると、「もう歳だから」「今のままで十分だ」と、竿の先で立ち止まっていないでしょうか。

でも実は、シニアこそ行動することが大事なことなのです。

現状維持は楽ですが、そこから一歩踏み出す勇気を持たなければ、何も残らないからです。

老後は、安住の場ではありません。

その先を求めることが大事なことだということです。

つまり、高齢になっても大志を抱くような気概がなければならないのです。

シニアよ大志を抱け

「少年よ、大志を抱け」 は、クラーク博士の有名な言葉ですが、私はこう言い換えたいと思います。

「シニアこそ、さらなる大志を抱け」

60代、70代になれば若い頃のような体力も勢いもありません。

ふとした瞬間に「今さら何かを始めても」と弱気になることもあります。

しかし、本当にそうでしょうか。

新しい何かを始めたい

誰の心にも、小さなことでもいいので何かをやってみたいという考えが残っているはずです。

「誰かの役に立ちたい」 「もう一度、あの頃の夢を追いたい」

歳をとっても、心のどこかに何かを成し遂げたいという夢や志という気持ちがあるのではないでしょうか。

でも、歳だからとか今さらといった、それを封印してしまう気持ちがどこかにあるのです。

たとえば、私が「バイクで一人旅がしたい」と言い出したとします。

年齢(75歳)を考えると、周囲からは猛反対されるかもしれませんし、自分自身もブレーキをかけてしまいます。

体力は持つだろうか、お金はどうする、 旅先で怪我でもしたら、 そんな不安ばかりが頭をよぎり、やっぱりできないと判断してしまうのです。

しかし、ここで諦めてしまうのではなく、本当に自分がやりたいのなら、「危険だからやめる」のではなく、「どうすれば安全にできるか」を考えることが大事なことです。

「できない理由」を並べるのは簡単です。

でも、「どうすればできるか」を考え抜くことこそが、一歩進んで夢への扉を開く鍵なのです。

大志を抱くのに年齢制限はない

若い頃は、夢や目標を友人と語り合ったものです。

しかし年齢を重ねると、「夢なんて語るものじゃない」「いい歳をして現実を見なさい」といった空気に包まれてしまいます。

でも、それは間違いです。

夢を語れる場所が少なくなっただけで、人は死ぬまで心の中に志を持ち続けていなければならないのです。

老後は、人生のおまけやゴールではありません。

自分らしく生きるための、真のスタート地点なのです。

行動のない人生に、豊かな「余白」は生まれない

私がこのブログで大切にしているテーマである余白のある暮らしは、単に暇を持て余して、何もしなく余裕を持てという意味ではありません。

余白とは、ぎゅうぎゅうに詰めるのをやめて、余裕のある考えで自分の意志で考え、一歩を踏み出すためにあえて空けておくスペースを作るということです。

部屋が物で溢れていれば、足の踏み場がなくなり動けなくなります。

人生も同じです。

予定やしがらみ、あるいは年相応などという常識を詰め込みすぎてしまえば、私たちは身動きが取れなくなってしまうのです。

努力をするためにも、新しい風を取り入れるためにも、心と暮らしに余白を作って、一歩踏み込んでみることです。

シニアこそ、大志を抱きましょう。

そして一歩踏み出していくことこそが生きる証なのです。

動かなければ、何も起こらない

家の中でじっとしていれば、安心で安全かもしれません。

しかし、その代償として、新しい出会いも胸が踊るような発見も、永遠に訪れることはありません。

このことは、高齢者の老後を考えたときの生き方に通じるものがあるのです。

私があえて言いたいことは、シニアこそ、何もしないというのではなく、何かをすることが必要だということです。

そのまま何も起こらないまま終わってしまう人生において、何かに向かって一歩前に出る気持ちこそ持ち続けなければならないのです。

高齢者の老後は最終地点ではありません。

余白のある人生において、大志を抱いて行動できる時間なのです。