ある日のこと、いつものようにポストを覗くと、広告のチラシに紛れて一枚のダイレクトメールが入っていました。
差出人は、とあるネットサイトのもので、ハガキの表面には、目を引く文字でこう書かれていたのです。
『ご当選おめでとうございます! 日帰りバスツアー 無料ご招待』
裏面を見ると、近隣の観光地を日帰りで巡り、お昼は豪華な「カニの食べ放題」という魅力的なコースで、さらに「同伴者様は半額」という一言が添えられていました。
定年退職して以来、老後の資金を切り崩さないよう、日頃から夫婦で節約生活を心がけてきたことから、このハガキを見たとき、これなら家計に負担をかけず、妻を旅行に連れて行ってやれると心が動いたのです。
「せっかくだし、たまには二人で出かけてみるか」
そう妻に相談すると、日帰りとはいえ久しぶりの旅行に、妻もすっかり喜んでくれたのです。
私は、その妻の笑顔を見て、早速、このツアーに申し込むことにしました。
しかし――。
この軽い気持ちで申し込んだバスツアーが、巧妙に計算されたものだったとは、この時は思いもしませんでした。
無料のバスツアー
ツアー当日は、見事な快晴でした。
集合場所で待っていた大型バスには、私たちと同じように「無料ご招待」の抽選で当たったであろう同世代のツアー客が、すでに大勢乗り込んでいました。
「本日は、皆様への日頃の感謝を込めた特別ご招待です。 どうぞ心ゆくまで、本日のご旅行をお楽しみください」 添乗員が満面の笑みを浮かべて挨拶をすると、車内はパッと明るい空気に包まれました。
午前中は有名な観光地や名所を巡り、お昼はお待ちかねの、名物のカニ食べ放題です。
これだけの贅沢がすべて無料、あるいは半額で楽しめるのですから、行く先々で、ツアー客たちの弾むような喜びの声が溢れていました。
定年退職して10年、年金暮らしということもあり、これまで夫婦でこれといった贅沢や楽しみを味わう機会もなかったので、少女のようにはしゃぐ妻の姿を見て、私は心から「思い切って、このバスツアーに参加して本当に良かった」と思ったのです。
ツアーの目的
楽しい観光を終え、美味しいカニでお腹もいっぱいになった午後のこと、朝早くから歩き回ったこともあり、バスに揺られる参加者たちの顔には、少しずつ疲れが出始めて、心地よいエンジンの振動に任せて、ウトウトとするような乗客も少なくありませんでした。
私たち夫婦も、満ち足りた気分でまどろんでいた時に、バスは、最後の見学場所として予定されていた宝石工場へと到着したのです。
「皆様、大変お疲れ様でした。これより本日の最後の訪問地であります、宝石加工工場へとご案内いたします」
静まり返っていた車内に、突然、添乗員の甲高い声が響き渡りました。
眠気を吹き飛ばすような勢いでマイクを握り、有無を言わさぬ明るさで私たちを工場見学へと誘導していきます。
実は、この無料バスツアーの『本当の目的』は、私たち乗客をこの場所に連れてくることだったのです。
疲労が奪う「判断力」
実は、このツアーのスケジュールそのものが、人間の心理を誘導するために巧妙に計算され尽くされたものでした。
このツアーでは、最初に観光地などを巡って歩き疲れさせます。
そして、豪華な料理を食べることでお腹がいっぱいになると、午後には疲労と満腹感で頭がぼんやりとしてくるのです。
さらに、参加者の心には無意識のうちに、これだけ良くしてもらってタダで楽しませてもらうのは申し訳ないという心理も一緒に働きます。
人間は、疲れ切っている時や、誰かに親切にされた後では、相手の言いなりになってしまうという心理が、私たちの冷静な判断力を奪うということになるのです。
そして、この絶妙なタイミングで、工場見学へと連れて行くことで、そこで買い物をさせるというのが、このツアーの最大の狙いということになります。
「工場直売」という言葉の催眠術
一通りの工場見学を終え、次に私たちが通されたのは、まばゆいばかりの宝石がズラリと並べられた展示会場のような部屋でした。
部屋の中央では、マイクを握った恰幅の良い工場長が、大げさな身振りを交えて熱弁を振るいます。
「皆さんはとても運がいい日に来ました。今日は特別に、問屋を通さない『工場直売価格』でご提供させていただきます」
「特別」そして「お得」という言葉が出ると、人間は誰しもこの言葉に弱いもので、この言葉にツアー客は誰しも、ツアーに来て良かったと思うのです。
今日一日をタダで楽しませてもらったという高揚感も手伝って、ツアー客たちの顔には笑みが浮かんでいました。
そこへ、工場長がさらに畳み掛けます。
「デパートの店頭に並べば、間違いなく70万円はする最高級のネックレス。それがなんと本日は、半額以下の30万円という卸価格でお持ち帰りいただけます」
普段の生活なら、30万円という金額を聞いただけで誰もが警戒して身構えるはずですが、70万円が半額以下になるという極端な値引き額を見せつけられると、工場直販だから実現できるという、もっともらしい理由を植え付けられてしまうのです。
「今買わないと、絶対に損をしてしまう」 まるで集団催眠にでもかかったかのように、そんな焦りの心理が部屋全体を包み込むことになります。
気がつけば、先ほどまでバスの中でウトウトと疲れ切っていたはずのツアー客たちが、目を輝かせて陳列ケースに群がり、次々と宝石を手に取り始めていました。
誘惑に負けない毅然たる態度
「奥様、とてもよくお似合いですよ」
気がつけば、私たち夫婦の目の前には、プロの販売員がピタリと張り付き、熱心に説明を始めました。
周りを見渡すと、簡単には断れないような異様な空気が部屋中に充満しています。
すると、あちこちから「こちらのお客様、お買い上げです」という声と共に、商談成立を祝う大きな拍手が聞こえてきました。
その空気にすっかり呑まれ、私の心もふと揺らぎます。
そういえば、定年退職してから妻に気の利いたプレゼント一つとしてなかったことと、今日一日、タダでこんなに楽しませてもらったのだし、記念に何か一つくらい買ってもいいかもしれないと、財布に手を伸ばしかけたその時です。
「あなた。私、宝石なんていらないわ」
妻が私の腕をギュッと掴み、真剣な目で首を横に振りました。
そして、そのまま私の手を強く引き、足早に出口の方へ向かおうとしたのです。
「お客様、せっかくの特別な機会ですから」 販売員が優しく、しかし立ち塞がるように言ってきます。
しかし、妻のその一言でハッとわれに返った私は、その制止をキッパリと振り切りました。
「私たちは、旅行を楽しみに来たんです。宝石を買いに来たわけじゃありません」
そう毅然と言い放つと、私たちは逃げるように会場を後にし、二人だけで静かなバスへと戻りました。
帰りのバスの中で
帰りのバスの中、私は静かに窓の外を見つめながら、今日の出来事を振り返っていました。
私たちを「無料」や「半額」で招待できた理由は、あの密室で冷静さを失い、数十万円の宝石を買ってしまうということが、ツアー全体の費用を穴埋めしているということです。
これは決して、警察が動くような法律違反の「詐欺」や「悪徳商法」とは言い切れないでしょうが、人間の心理の隙間に入り込み、巧みに感情を操るその手口は、あまりにも恐ろしいものでした。
まるで不思議な世界に迷い込んだ感覚であり、世の中のビジネスの一部は、こうした計算の上に成り立って回っているのかもしれません。
もしあの空気に呑まれ、数十万円の契約書にサインをしてしまっていたらと思うと、その代償の大きさにゾッとします。
「安いものには、必ず裏がある」私はこの言葉の重みを何度も心の中で噛み締めていました。
このように人間の心理を利用して甘く誘惑してくる罠が、日常のあちこちに潜んでいます。
こうした誘惑に流されず、「いらないものは、いらない」と毅然とした態度で断る勇気を持つことが、私たちシニア世代が、これからの老後を安心して、ゆとりを持って生きていくための最大の防衛策なのです。
「タダより高いものはない」この言葉を今回の体験を通してつくづく確信しました。