
モフ子は、明るく元気なウサギです。
今日も森を歩いていると、他の動物たちが集まってきて一緒に歌います。
森には風がやさしく吹き、毎日が楽しく陽気な光に包まれています。

ある日、街に出ていたネズミから重たい知らせが届きました。
「クマが人間を襲ったらしい。それで街は大騒ぎなんだ」
動物たちはざわめき、森の中に冷たい影が落ちたように静まり返りました。

木の枝の小鳥は叫びます。
「あんな危険なクマは森の仲間ではない!」
「でも、そんなのかわいそう……」
モフ子を含め、意見は分かれ、空気は鋭く張りつめました。

クマが人を襲ったと聞けば、仲間たちの怒りも無理はありません。
けれどモフ子の心に、小さな問いが芽生えました。
「どうしてクマさんは人間を襲うことをしたのかしら。静かに森で暮らしていればよかったのに」

川辺に霧が立ちこめていました。
その向こうに、大きな影がありました。
背を丸め、荒い息をつきながらクマが立っていました。
その目には、深い疲れと悲しみが映っていたのです。

モフ子はクマに、おそるおそる近寄りました。
その姿は悪い動物には見えません。
クマは震える声でつぶやきました。
「腹が減った……どうしても、生きたかった……」
その言葉は、モフ子の胸を刺しました。
森は人間によって開発されていき、食べる餌がどんどん減っていったのです。
だから人里に出なければならなかったのは、生きるためでした。

同じ動物として、生きたいという思いは、モフ子たちも変わらないのです。
しかし、生きるためとはいえ、人間を襲ったという身勝手な行為は、許されるべきものではないと、モフ子は知っています。
モフ子は、小さな足で森を抜け、人間の村の近くにある小さな山寺へ向かいました。
そこには、昔からよく相談していた、やさしいお坊さんが住んでいました。

寺の灯明が、闇をほのかに照らしていました。
モフ子は震える声で言いました。
「和尚さん……どうしても分からないのです。クマにも仏の心があると聞いたのですが、人を襲ったのに、本当に仏の心はあるのでしょうか?」
和尚さんはしばらく黙って、灯明の炎を見つめていました。
そしてやさしく答えました。
「モフ子や。仏の心は誰にもある。けれど、飢えや苦しみの雲に覆われると、その心は外に出られなくなるのだよ」

クマは飢えに追われ、苦しみを抱えていた。
その雲に隠れて仏の心を忘れてしまった。
モフ子は、そのように思いました。
和尚さんは言います。
「人間も同じだよ、仏の心を持ちながら、怒りや欲にのまれて、人を傷つけてしまうのだから」
生きとし生けるものは、すべてあるのが仏性であって、しかしそれがあるのに見えなくなってしまう。
モフ子は目を伏せて、ゆっくり考えました。

仏の心があるのに、見えなくなる……。
「和尚さん、では、その仏の心は何のためにあるのでしょう?」
和尚はゆっくり首を振りました。
「それを、問い続けることこそ、大切なのだよ」

モフ子は深く息をつきました。
問いは消えません。
けれど、和尚さんの言葉は、モフ子の心にひとつの火をともしました。
「仏の心はみんなにある。でも見えなくなることもある。だからこそ、常に忘れないように問い続けるように生きること」
モフ子は、仏様に手を合わせました。

そのころ、人間たちが森に集まりました。
「あのクマを放っておけば、また犠牲が出る」と話し合い、ついに猟師が銃をかまえたのです。
森じゅうの空気が、鋭く張りつめました。
ダーン!
銃声が響き、森は深い沈黙に包まれました。
モフ子は、ただ、その場で小さな手を合わせました。
涙がとめどなく流れ落ちました。
「あなたの命も、仏の光に抱かれていますように……」

森の仲間たちも集まりました。
怒っていた小鳥も、涙ぐむリスも、みんな静かに祈りました。
そこにあったのは、ただ一つの命への哀惜でした。
夜空には無数の星が輝き、クマの魂もまたその光の中に帰っていくようでした。
モフ子は星空を見上げ、胸にあたたかくも苦い光を感じていたのです。

森は再び静けさを取り戻しました。
けれどモフ子の胸には問いが残り続けていたのです。
「すべての生きるものには仏の心があるのに、なぜ悲劇が起こるのか?」
その問いを抱えながら生きることこそ、わたしたちに与えられた道なのかもしれません。