与謝蕪村は1716年、大坂の毛馬村(現在の大阪市都島区)という農村に生まれました。
二十歳のころに故郷を離れて江戸へ下り、俳諧の師である早野巴人(はやのはじん)の門を叩き、俳句の道を歩み始めます。
しかし、その師は早くに亡くなってしまいます。
道標となる存在を失った蕪村は、江戸を離れることにしました。
およそ十年ものあいだ、北関東や東北地方を転々としながら旅をして歩くのです。
それは、憧れの松尾芭蕉の足跡をたどるような旅でもありました。
自分は何者になるのか、これからどう生きていくべきなのか。
確かな答えがまだ見つからないまま、ひたすら風景の中を歩き続ける、模索の時期だったのだと思います。
絵で暮らしを立て、二つの道を往還する
やがて40代を目前にして京都に落ち着いた蕪村ですが、当然ながら俳句だけで食べていくことはできません。
生活の糧を得るために、彼は絵を描いて生計を立てるようになります。
一時期は丹後の宮津(現在の京都府北部の海沿いの町)に三年ほど身を置き、ひたすら絵の修業に打ち込み、腕を磨いたこともありました。
画家としての道を切り拓きながら、同時に俳句への情熱も決して手放さない蕪村は、「俳句」と「絵」という二つの道を行ったり来たりしながら、絵を描き俳句を詠んだのです。
晩年に見つけた「自分だけの居場所」
蕪村が亡き師の名跡を継ぎ、俳人として本格的に世に出たのは、なんと五十五歳になってからのことでした。
人生の秋を迎えようとする時期に、ようやく彼の才能は花開きます。
そして晩年、彼が長年書き続けた「俳句」と、描き続けた「絵」が一つに結実し、あの蕪村にしか描けない「俳画」が生まれたのです。
前回紹介した、芭蕉の『おくのほそ道』に絵を添えた作品群も、蕪村が六十歳を過ぎてから手がけたものです。
どちらの道も諦めず、迷いながらも歩き続けたからこそ、その二つの道が重なり合う場所に、蕪村だけの「唯一無二の居場所」を見つけたのだと思います。
正岡子規による発見
与謝蕪村が俳人として広く世間に認められたのは、彼が亡くなってからおよそ百年後、明治時代に入ってからのことでした。
正岡子規が、百年の時を超えて蕪村のことを評しました。
1897(明治30)年に『俳人蕪村』という評論を発表し、蕪村を芭蕉と並び称されるべき大俳人と書いています。
芭蕉は、どちらかというと、自分の生き方や、心の奥底にある深い思いを言葉にするすごさでがありました。
しかし、画家としての才能があった蕪村は、自分の感情を詰め込むのではなく、目の前にある景色を、ただそのまま「言葉」を使って詠ったのです。
有名な「菜の花や 月は東に 日は西に」という句があります。
これを読むと、足元に広がる一面の黄色い菜の花、東の空にぽっかり浮かぶ白い月、そして西に沈んでいく赤い夕日といった情景が、頭の中にパッと鮮やかに浮かびます。
子規は、この「言葉で絵を描く」ような蕪村の鮮やかさに驚きに、すっかり魅了されたのだと思います。
自分が納得した中で、書き続けるということ
蕪村の長く静かな生涯をたどってみて、私はひとつの大切なことに気づかされました。
文学や芸術における「自分らしさ」というものは、探してすぐに見つかるようなものではないということです。
それは、迷いながらも続けることで、少しずつその人の奥底からにじみ出てくるものなのだと思います。
すぐに世間に認められなくても、自分が納得するものを信じて、あきらめずに書き続けること。
たとえ百年後にしか理解されなかったとしても、書き手自身が真摯に向き合い続けた軌跡は、決して消えることはないということです。
私もいま、75歳の絵本作家という場所に立って、素人ながら絵本を作っています。
世の中で 認められるかどうかはわからなくても、自分が納得する表現を求め書き続けることで、いつかきっと、私が書き残したささやかな言葉や絵が誰かに届けばいいと思っています。